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Blog itamania

(。・ω・。)

〔言葉の難しさに思うこと〕三角錐をどう説明するか

人は自分の見たいものしか見ていない。

だから誰かと同じ映画を観ても

観ているところ、つまり焦点を当てているところは全く別だったりする。

たとえば役者志望なら内容より誰か特定の役者の演技に焦点を当てて観たり

たとえばCG制作関係者ならCG技術が使われている場所を重点的に観たり

恋愛物でいえば

たとえば不倫映画なら不倫している人は不倫している側の見方をして観たり

反対に現在奥さんをしている人は正妻側の立場で映画を観たり

浮気中の男性なら目を背けて観ないようにしたり…w

おのおのそうやって自分の経験や立場で見たいところだけをチョイスして観ている。

だから、表現者が本当に伝えたかったことと全く違う解釈で世間に広がってしまうことがある。

真実に行き着けば、結論として同じ事を言いたいのに、

言葉×時空が合算されると、同じ事なのに場合によっては真逆の言葉で説明をしなければならなくなってしまう。

これを空間把握で例えるとわかりやすい。

たとえば三角錐(さんかくすい)。

三角錐はこれ。

らむの泉(*^ー^*)ノ はぁとロンダリング

これを説明するときに、

ある人は ある角度からだけ観てこう答える。

「三角錐は、三角ひとつだよ」と。

でも 違う角度から観ている人はこう答える

「三角錐は、三角ふたつだよ」と。

でも また真上から観ているほかの人はこう答える。

「三角錐は、三角三つだよ」と。

「三角錐」が何かを全て理解している者にとっては

時間がたっぷりあれば、この三角錐について くまなく説明ができるかもしれない。

そしてこう説明する。

「三角錐は、4つの三角から出来ていて、辺6本と、頂点4つの立体の三角だよ」と。

でも、説明を受けた相手が実物を目にしたことがなければ、想像力で頭に物体を出現させるしかないので

相手の想像力が乏しかったら頭の中で、この三角錐を再現させるのは難しい作業となる。

説明する側の説明の仕方も 相手の経験値に合わせて説明しなければならないので

真のコミュニケーション能力が問われることとなる。

たとえば

牛乳給食の三角牛乳を知っている人になら、三角牛乳パックの形だよ、

といえば一発で理解してもらえるといったように、相手の経験値をさぐることが大切になる。

宗教なども この空間把握で説明がつく。

一神教、多神教、キリスト教、イスラム教、新興宗教…結局のところ完全なる理解者は

すべてはこの三角錐(立体)を説明しようとするのだが

そこに到達しない信者は、

この三角がいくつあるかに拘り、自分の観た角度の三角の数だけが絶対と信じている。

そして その見えてる三角の裏側の三角を絶対に見るぞと信じ、最終的に観れた人が悟りの仲間入りをはたす。

でも、思想から生じる戦争など

トラブルが絶え間なく続くエリアは、その見えてる三角だけ観て、それが正しいと言い争っている。

本当はどちらも正しいのに…。

でも、最初から三角錐を観ようとも知ろうとも思わず、それで人生はなんて苦しいのだと嘆いている人よりは

信じているものがあるという点では、非常に人生を生きやすいだろう。

ゼロからは何も生まれないが

1さえあれば、1以外のものを知る機会が設けられるからだ。

一神教の強さはそこにあるのかもしれない。

平面から立体へ移行する順序立った道筋があるからだ。

焦点があらかじめ用意されているということだ。

そう考えると欧米の文法が結論から来るというのも頷ける。

結論(平面)→補足(立体)というように。

多神教の場合は 反対に 立体を先に見せられる。

立体から先に見せられるということは

焦点が拡散してしまうため、平面がいくつもあることは理解しやすいが

焦点を当てるエネルギーの矛先が散りやすい分、漠然としすぎて

自分で方向性を定めないと前に突き進むことができなくなってしまう。

つまり、立体を先に知っても

結局は平面に向かわなければならないということになる。

三角錐を知ろうとするなら

まずは牛乳パックの形を観て漠然と知ったあと

三角がいくつあるのかと、ひとつひとつをチェックしていく作業をする必要があるということになる。

これも最後に結論を持ってくるといった日本語の文法と繋がる。

結論を出すに至るまでの理由(立体)→結論(平面)という具合だ。

そしてどうしてこうなったのかと推測すると、

島国であり農耕民族であった日本人はやはり自然の恩恵をたっぷり受けていたから

大陸の人たちのように「パイは限られている。だから奪いあわなければならない」

という発想があまりなかったのだと思う。

だから瞬時の決断よりも、明確な決断に重きを置いた生活があったのではないかと思う。

そうして狩猟民族の人々より時間という概念がおおまかであったから

一刻を争う必要性がなく、文法さえも結論が最後にくるようになったのだろう。

そして、今後の私のメッセンジャーとしての役割は

立体を伝えていくことなのだが、現代の日本人は、時間が欧米化されている。

だから私もそれに合わせて、まずは、ある角度の平面から先に説明し、

そこの理解を登竜門として次の角度をみれる道順を作りたいと思っている。